シャーレに入れたラットの脳細胞のネットワークを“訓練”して砂時計のように時間を刻ませることができるという最新の研究が発表された。この発見は、人間の脳が時間を認識する方法を解明する手がかりとなるかもしれない。
時間を認識する能力は、人が他の人や世界と関わり合うための基本的な能力であり、話し方や歌のリズムを認識するために欠かせない能力でもある。
「時間の認識に関して長い間議論となっている問題の1つは、中枢となる時計が脳の中に1つ存在するのか、それとも脳のさまざまな回路が一般的な能力として時間認識能力を備えているのかということだ」と、研究を率いたカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の神経科学者ディーン・ブオノマーノ氏は話す。
同氏の研究チームは、ラットの脳細胞のネットワークを生きたままシャーレに入れ、2回の電気パルスを50~500ミリ秒間隔で発信して刺激を与えた。この“訓練”を2時間続けた後、この脳細胞のネットワークに電気パルスを1回加えて、脳細胞がどのような反応を示すかを観察した。
その結果、短い間隔の電気パルスで訓練したネットワークでは、細胞間のコミュニケーションは短時間しか続かなかった。例えば、50ミリ秒間隔で訓練したネットワークでは、細胞間のやりとりはおよそ50~100ミリ秒間だった。ところが、長い間隔の電気パルスで訓練したネットワークでは、活動がはるかに長く続いたという。500ミリ秒間隔で訓練したネットワークを調べた結果、どのネットワーク間のコミュニケーションも500~600ミリ秒続いた。
単純な時間間隔で行動することを学習する能力が脳細胞にあることが明らかになったのはこれが初めてのことだ。
今回の研究は、時間を認識するヒトの能力が1つの“時計係”によって制御されているのではなく、少なくとも1秒未満の時間間隔については、すべての脳細胞ネットワークに備わっている能力であることを示唆しているとブオノマーノ氏は説明する。
「時間を認識する能力はほぼすべての人間行動に欠かせないものであり、この能力についての理解を深めれば、脳が空間と時間の複雑なパターンを認識するメカニズムの解明が進むだろう。今は人工のコンピューターシステムでこのような認識能力を獲得しようと模索が続いているところだ」。
この研究は2010年6月13日に「Nature Neuroscience」誌オンライン版で発表された。
Charles Q. Choi for National Geographic News
2010年6月17日木曜日
脳の巧みな時間順序の推定法の解明
JST(理事長 沖村憲樹)と順天堂大学(理事長 小川秀興)は、左右両方の手に加えた刺激の順序の判断に、これまでの経験を加味した「ベイズ推定」が用いられることを明らかにしました。
本研究チームは、右手と左手に少し時間をずらして刺激を加える、という作業を何回も繰り返すと、左右の手に同時に与えた刺激が、繰り返した刺激と同じ順序に感じられるようになることを見出しました。この錯覚は皮膚の感覚器からの情報に加えて、事前の経験を総合して判断する「ベイズ推定」と呼ばれる効率の良い推定法で良く説明できました。感覚器からの信号にノイズがある場合には、ある程度経験に頼る「ベイズ推定」を行うことで誤りを最小化できることが数学的に示されています。この錯覚の発見は、脳の中には時間順序を判断する際に巧みな「ベイズ推定」を行うメカニズムが組み込まれていることを示す成果です。
学習障害の一つである「難読症」の背景には、次々と入力される感覚信号の順序判断をする脳の機能に障害がある可能性があると言われています。脳が感覚信号を順序付けるメカニズムの一端を解明した本研究の成果は、これらの障害の原因を解明する手がかりとなる可能性があります。
この研究成果はJST戦略的創造研究推進事業チーム型研究(CREST)「脳の機能発達と学習メカニズムの解明」研究領域(研究総括:津本 忠治(独立行政法人理化学研究所脳科学総合研究センター ユニットリーダー))の研究テーマ「応用行動分析による発達促進のメカニズムの解明」の研究代表者・北澤 茂(順天堂大学大学院医学研究科 教授)と宮崎 真(早稲田大学人間総合研究センター 助手)、山本慎也(独立行政法人産業技術総合研究所 研究員)らの共同研究によって得られたもので、米科学雑誌「Nature Neuroscience(ネイチャー・ニューロサイエンス)」オンライン版に2006年5月28日(アメリカ東部時間)に公開されます。
【研究の背景】
学習障害の一種である難読症では書かれた文字を読むことに困難があります。最近の研究では発達性の難読症は視覚、触覚、聴覚といった様々な種類の刺激の時間順序弁別システムの障害の結果として生じている可能性があることが指摘されています。しかし、残念ながら脳が刺激をどのように順序付けているのか、基本的なメカニズムも未だに解明されていません。
本研究では、左手と右手に加えた刺激の時間順序を判断するという単純な課題を使って、脳が時間順序を判断するメカニズムの基本を確率論の観点から解明することを目指しました。
【研究の内容】
本研究では、目を閉じた被験者 (12名) の右手と左手に短い間隔で軽い刺激を加えました(図1)。被験者は右手が先か、左手が先か、を判断して足でペダルを押して答えます。右手先行の刺激と左手先行の刺激をバランスよく(半々の試行で)与えると、図2のようなS字型の判断曲線が得られることがわかっています。図2の縦軸は右手が先と答える割合で横軸は刺激の時間差です。正の時間差は右手先行の刺激、負の時間差は左手が先行の刺激であることを示します。図2からわかることは2つあります。一つは0.1秒の差があればだいたい正確に判別できること。二つ目は、右手が先という判断と左手が先という判断が五分五分になる点(y=0.5とs字曲線の交点)はだいたい0 msとなることです。つまり、「左右の手に同時に加えた刺激は、大体同時と感じられる」ということです。
本実験では右手先行の刺激の割合を増やしたり、左手先行の刺激の割合を増やしたり、刺激時間差の確率分布に偏りを導入しました。右手先行の刺激の割合を増やした右先行バイアス条件では、右刺激が平均80 ミリ秒先行するようなガウス分布 (標準偏差 80 ミリ秒) から刺激時間差をランダムに選びました (図3)。この条件では、84%の確率で右手が左手よりも先に刺激されます。もう一つの条件、左先行バイアス条件では、左手刺激が平均80 ミリ秒先行するようなガウス分布 (標準偏差 80 ミリ秒)を用いました。 各被験者は,右先行バイアス条件と左先行バイアス条件を各1000回試行しました。
右手を先に触るという刺激の頻度を増やした場合、従来の理論(注1)では「繰り返し経験した刺激はだんだん同時に感じられるようになる」と考えられてきました。つまり、「右手を先に触ったときに、判断が五分五分になる」というのが従来の理論の予測となります。ところが、得られた結果は、「左手を50-60ミリ秒程度先に触ったときに、判断が五分五分になった」のでした。別の言い方をすると「右手と左手を同時に触ると右手が先と感じられる」ようになりました。 (図4)。従来の理論の予測とは異なり、物理的に同時に起こった刺激が、繰り返し起こった刺激の順序に引きずられて解釈されるようになったのです。
本研究チームが発見したこの新しい錯覚は、「ベイズ推定(注2)」と呼ばれる巧妙な推定法と一致しています。人間は体の多数のセンサーからの信号を元に、外界の様子を判断します。しかし、センサーにはノイズがありますから、センサーの信号を鵜呑みにすると判断を間違えることがあります。できるだけ間違いを少なくするには、それまでの「経験」を加味するのが得策です。最適な加味の割合は「ベイズ推定」と呼ばれる数学理論で表すことができます。今回得られた結果は、時間順序の錯覚の方向だけでなく、その大きさについてもこのベイズ推定の予測値とよく一致しました。
本結果は、時間順序の推定に脳が「ベイズ推定」を用いて確率論的に最も正解可能性の高い判断を行っていることを示すものでした。
次にこのベイズ推定から予測される錯覚現象が過去の研究では観測されなかった理由を調べるため、音刺激(1,800Hzの純音、10 ms)と光刺激(60cm前方のLED)の順序判断に対する偏った刺激分布の効果を調べました (被験者6名、図5)。被験者はヘッドフォンからの音と前方のLEDの光の順序を判断してペダルで回答します。この音-光刺激のペアは過去の研究で用いられた刺激ペアです。実験の結果、従来の報告通り「繰り返し経験した音と光の刺激ペアはだんだん同時に感じられるようになる」が再現されました (図6)。この相反する結果が得られた理由は、次のように考えられます。音刺激と光刺激の時間差は、光速と音速が異なるため、その発信源の物理的距離に応じて変動します。「繰り返し経験した刺激はだんだん同時に感じられるようになる」という従来知られていた知覚の変化(ラグアダプテーション)は、音と光の組み合わせには有益です。 しかし、右手と左手の触覚刺激の場合は直接感覚器を刺激するため、伝導時間は変動しないので、ラグアダプテーションが起きては困ります。ベイズ推定によって感覚信号のノイズの影響を小さくするのが得策になるわけです。
本研究チームは、さらにラグアダプテーションとベイズ推定を両立させる数理モデルを提案して、一見相反する2種類のデータを説明することに成功しました。この説明では、ベイズ推定はどんな組み合わせの信号に対しても働いているのに対し、音と光のように特殊な組み合わせの場合に「ラグアダプテーション」が生じてベイズ推定の効果を打ち消している、と推定しています。
【今後の展開】
本研究では右手と左手の皮膚に加えた刺激の時間順序をできるだけ正しく判断するために、脳が巧妙な推定法(ベイズ推定)を使っていることが明らかになりました。本研究チームでは、今後、様々な感覚信号の組み合わせについて、時間順序の推定にベイズ推定が使われていることを示す予定です。音と光の組み合わせでも「ラグアダプテーション」のメカニズムの働きを抑えることによってベイズ推定が使われていることを示せるのではないかと考えています。
さらに、発達性の難読症や自閉性障害が、時間順序判断とベイズ推定のメカニズムに与える影響を調べる予定です。得られたデータはこれらの発達性の障害の原因解明に重要な手がかりを与えてくれると期待されます。
また、この巧妙な推定法を実現する脳の情報処理機序を解明していくことで、複雑な実環境に柔軟に対応することのできる人工知能やロボットの開発に役立つことも大いに期待されます。
一方、ベイズ推定は事前の確率分布が変わらないという条件下では優れていますが、状況が変わってしまうと間違いが増えることにも注意が必要です。「新しい状況下では人間は過去の経験に引きずられて誤りを犯しやすい」ことも意味するのです。スポーツのフェイントなどでは、このような人間のベイズ推定の傾向を逆手に取っているかもしれません。この観点から、一流アスリートの能力や技を分析するのも興味深いテーマです。さらに本研究の成果は、事故を未然に防ぐための対人技術の考案にも役立つことが期待されます。
【用語解説】
図1 実験で刺激を与える位置
図2 通常の場合の刺激時間差と判断との関係
図3 右手先行バイアス条件での時間差の分布
図4 右手先行刺激を繰り返した場合の刺激時間差と判断との関係
図5 音先行バイアス条件での時間差の分布
図6 音先行刺激を繰り返した場合の刺激時間差と判断との関係
【論文名】
「Bayesian calibration of simultaneity in tactile temporal order judgment」
(触覚刺激の時間順序判断における同時性のベイズ較正)
【研究領域等】
この研究テーマを実施した研究領域、研究期間は以下の通りである。
研究領域:脳の機能発達と学習メカニズムの解明(研究総括:津本 忠治)
研究課題:応用行動分析による発達促進のメカニズムの解明
研究代表者:北澤 茂(順天堂大学大学院医学研究科 教授)
研究期間:平成17年度~平成22年度
登録:
投稿 (Atom)