2013年8月23日金曜日

ホンダ 大型バイク「NC700X」 「みんなが反対することをやりたい」 フィット真っ二つエンジンで低燃費を実現 青木柾憲さん(本田技術研究所 上席研究員)

WEDGE(2013.8.15)

求めやすい価格や高い燃費性能、さらに乗りやすさなどが評価され、2012年度には排気量401cc以上の大型バイク市場で米国のライバル社を抑えてトップになった。派生モデルを含む同年度の販売台数は約5100台と、目標の3500台も大きく上回っている。

 価格は64万円台からで、12年2月の発売時はホンダの400cc級の製品よりも安く、バイクファンを驚かせた。開発の指揮を執ったのはホンダの研究開発部門である本田技術研究所の二輪R&Dセンター上席研究員、青木柾憲(58歳)。入社以来、米国の研究所勤務時代も含めバイク開発一筋であり、責任者として手掛けたモデルだけでざっと20台に及ぶ。数々のヒット車を生み出したベテラン技術者だ。

 青木に開発の指示があったのは08年3月。いわゆるナナハン(排気量750cc)級で既存車より30%のコスト削減を図るという内容だった。トップメーカーとして、国内バイク市場の長期低迷に何とか手を打ちたい、という狙いがあった。排気量251cc以上の中型・大型車の市場は1980年代半ばに15万台規模だったのが、08年には3分の1まで縮小していた。

 需要が縮むので量産効果が薄れて価格は上昇、するとユーザー離れが加速―といった負のスパイラルを断つため、コストからアプローチしようというわけだ。しかし、これほど具体性に欠ける開発方針は、ホンダでも異例だったという。

 そこは百戦錬磨の青木。「コストさえ下げれば何をやってもいいのだろう」と解釈し、プロジェクトを立ち上げた。「好きにさせてもらう、という感じですよ」と、青木は悪戯っぽく笑う。とはいえ、数十人の技術者が参画するプロジェクトだけに、「コスト低減」だけではベクトルは定まらない。自由度が高いと、逆に目指す製品像がなかなか見えて来ないのだった。青木には「好きにできるというのに、多くのメンバーが既成概念に縛られている」と映った。

 前に進めるため、青木は同年7月に北海道の自社テストコースにメンバー30人余りを集めて合宿した。500~800cc級の国内外のバイク14台を用意し、各人が乗り比べたのだ。ひと晩だけは全員集合して夕食を兼ねたミーティングを開き、さまざまな意見をぶつけ合った。

 これにより、トップの燃費性能をめざすこと、高速のみならず日常の走りも楽しくなるエンジン特性の確保といった大まかな方向性が固まり、開発メンバー間の意思疎通も少し深まった。それでもカチッとした製品コンセプトを固めるには至らなかった。

眠れぬほど気になった居酒屋で出た意見
 ある日、青木がメンバーと居酒屋で意見を交わしていた時だった。心臓部のエンジンを担当する主任研究員の山本俊朗が「フィットの1.3リットルのエンジンをパカッと切って半分にしたら、燃費のいいのができる」と話した。最初は「酔った勢いの発言」と受け流していた青木だが、その夜、眠れないほど引っ掛かった。結局、翌日には山本に半分に切ったエンジン開発を指示した。

 「NC700X」のエンジンが直列2気筒670ccとなったのは、実際に同社のベストセラー乗用車「フィット」の低燃費エンジンをモデルにしたからだ。直列4気筒を2気筒にし、シリンダ(燃焼室)径などはそのまま踏襲した。ただし、バイクのエンジンなので2つの燃焼室での爆発タイミングを故意にずらすよう味付けをした。バイク用語では「鼓動感」と呼ぶそうだが、「ドドッ、ドドッ」と独特のリズムを奏でるようにしている。

 燃費は1リットルで41キロ(時速60キロ定地走行)と、400cc級にも勝るレベルを実現した。エンジンの最高回転は毎分6400回転と、このクラスでは1万回転以上が当たり前だったホンダのバイク用エンジンとは全く素性の異なるものができた。回転を抑制することで低中速域から十分なトルク(回転力)が得られるので、多くのユーザーから「乗りやすいのに加速感も十分」との評価を得ることにつながった。

 もっとも大型用のエンジンとしては型破りなので、青木は社内の酷評を覚悟していた。それを克服して商品化に進むには、実際に乗ってもらうことだった。09年の夏、役員も交えた開発中のバイクの試乗検討会が北海道で行われた。ホンダの役員は全員大型バイクを操ることができるが、とくに社長の伊東孝紳はバイクが大好きで、しっかりした評価軸ももつ。数々の試乗車から伊東が最高の評価を与えたのは、青木チームのバイクであり、事実上の商品化ゴーサインとなった。

 そもそもの課題であったコストは、国内で生産するだけに厳しかったものの、材料歩留まりを高める新工法など日本ならではのアプローチを進めた。

 同時に、アジアを中心にホンダの海外工場に納入するサプライヤーからも部品を調達、海外部品比率を4割程度にすることで目標に到達させた。

 速射砲のように繰り出される青木の話は愉快で、相手を飽きさせない。印象的だったのは、「みんなが反対するのは、既成概念をはみ出しているから。むしろそこにヒットの可能性がある。だから私はみんなが反対することをやりたい」。さらに「最大の敵は、前例のないことを否定する社内の壁」とも言い切る。ホンダには貴重な、尖った理念をもつエンジニアでもある。(敬称略)

■メイキング オブ ヒットメーカー 青木柾憲(あおき・まさのり)さん 本田技術研究所 上席研究員
1954年生まれ
長野県長野市生まれ。幼稚園の時分に音楽に目覚め、中学2年までピアノ教室に足しげく通った音楽少年であった。県立長野高校へ進学し、軽音楽部でキーボードを担当した。高校1年時に二輪免許を取得。
1974年(19歳)
電気通信大学工学部機械工学科へ進学し、吉祥寺で一人暮らしを始める。いわゆる貧乏学生で、バイクとは無縁の生活を過ごした。趣味の音楽では、作曲活動なども行い、ラジオに投稿した自作の曲が放送されることもあった。就職活動では音楽活動をウリにした。
1978年(23歳)
ホンダに入社。「クルマよりバイクのほうが技術者の裁量が大きく、全部作れそう」とバイク部門を希望。念願叶って、2年目に埼玉県朝霞市にある現在の二輪R&Dセンターに配属となった。93~96年の米国カリフォルニア州駐在を除けば、一貫して朝霞で働いた。
2003年(48歳)
03年から開発責任者を離れ、コスト企画や小型バイクなどの管理業務を担当した時期もあった。だが、「マネジメント業務は性に合わない。開発責任者への復帰を熱烈に希望した」甲斐もあり、06年に天職である開発責任者へ戻った。自宅にはグランドピアノが2台ある。「音楽もバイクも良いモノを作りたいという私の欲求を満たしてくれるという点で同じ」という。